☆ー目次ー☆
1,小園安名中佐の斜銃提案とその成果
1942年11月、ラバウルで台南航空隊は戦争初期に重要な役割を果たしました。その後、再編成や改名を経て第251海軍航空隊となりました。この第251海軍航空隊を指揮していた小園安名中佐(こぞのやすな ちゅうさ)は、重要な役割を果たしました。一時的に横須賀へ帰還し、大型爆撃機対策会議に参加、自ら考案した斜銃の有効性を強く訴えましたが、他の参加者からは冷淡に「実験する価値も無い」と斬り捨てられました。空技廠や実験隊も「現地での単なる思い付き」と否定的でした。
ラバウルは、1942年から1945年まで日本軍の南太平洋地域での主要な基地の一つ。台南航空隊は、その拠点の一つとしてラバウルに駐留したことがあります。つまり、ラバウルは地名であり、台南航空隊は部隊名です。ラバウルという場所に台南航空隊が駐留していました。現在のパプアニューギニアにある町の名前です。
そんな中、空技廠に放置されていた3機の十三試双発陸上戦闘機があることが判明。「ほうっておくのは勿体無い」と考えた小園中佐は、これらの機体に斜銃を搭載する改造を提案しました。大型機であったため、斜銃を搭載するスペースがありました。航空本部の技術幹部も「放置されている機を使うならば」と提案を支持し、試しに3機を改造することが決まりました。
こうして斜銃を搭載した十三試双発陸戦が誕生し、ラバウルへ送る前に零戦との模擬戦で斜銃の有効性が確認されました。その結果、9機の二式陸偵と2機の改造十三試双発陸戦がラバウルに輸送され、20mm機銃の破壊力でB-17を撃墜することが期待されました。
2,十三試双発陸上戦闘機の改造と斜銃搭載
そのような状況の中、空技廠に放置されていた3機の十三試双発陸上戦闘機が目に留まりました。「こんな有望な機体を放置するのは勿体無い」と考えた小園中佐は、これらの機体に斜銃を搭載する改造を提案しました。この大型機には斜銃を搭載するスペースが十分にあったのです。
航空本部の技術幹部も、「放置されている機体を有効活用するならば」とこの提案を支持し、試しに3機を改造することが決まりました。こうして斜銃を搭載した十三試双発陸戦が誕生しました。
ラバウルへ送る前に、零戦との模擬戦が実施され、斜銃の有効性が確認されました。その結果、9機の二式陸偵と2機の改造十三試双発陸戦がラバウルに輸送されました。この改造機は、20mm機銃の破壊力でB-17を撃墜することが期待されていました。
3,月光の誕生と輝かしい戦果
1943年初頭、ラバウルはB-17による夜間爆撃にさらされていました。通常の戦闘機では迎撃が難しく、B-17の圧倒的な防御力に対して手も足も出ない状態でした。しかし、5月に斜銃を搭載した試作機2機がラバウルに到着し、防空戦に参加しました。この改造十三試双発陸上戦闘機は到着直後からその性能を発揮し、B-17を下方から攻撃して2機を撃墜するという初戦果を挙げました。その後も戦果を重ね、工藤重敏上飛曹(くどうしげとしじょうひそう)と小野了中尉(おのさとるちゅうい)が駆る機体は、B-17とB-24を合わせて10機撃墜するという驚異的な成果を上げました。
この戦果に驚いた海軍は、二五一空が保有する二式陸上偵察機にも斜銃を装備するよう命じました。そして、1943年8月23日に「月光」として正式に制式採用され、中島飛行機に量産が命じられました。夜間戦闘機には「光」の文字を入れる慣習から「月光」と命名され、その名は広く国民にも知られるようになりました。月光はその卓越した性能とパイロットたちの技術で、B-17やB-24を次々と撃墜し、日本の防空戦において重要な役割を果たし、その輝かしい戦果は、日本の空を守るための勇敢な奮闘を象徴しています。
4,月光の輝かしい戦果とその後の運命
月光は夜間に襲来するB-17やB-25を次々と撃墜しました。敵の死角から射程外で攻撃できる月光は、まさに傑作機でした。その強さの秘訣は、特定の箇所に集中攻撃を加えられる点にありました。この戦術により、月光はラバウルへの夜間爆撃を一時的に中止させるほどの打撃を与えました。しかし、戦況は次第に悪化し、連合国軍は夜間爆撃から白昼の爆撃に切り替えた為、月光は、夜間に敵基地を襲撃する任務に転用されました。こうして、月光は日本の夜間戦闘機として、その名を歴史に刻むこととなりました。月光の初期の戦果は驚異的でしたが、戦況の変化に伴い、さらなる挑戦に直面しました。それでも月光は、その卓越した性能とパイロットたちの技術で、日本の防空戦において重要な役割を果たし続けました。その名は今も、多くの人々の記憶に残っています。
月光の勇敢な活躍は、日本の空を守るための奮闘と、困難な状況下でも希望を見出す姿勢を象徴しています。
月光の本土防空への貢献
1944年3月1日、木更津基地(きさらづきち)にて本土防空を担う第302海軍航空隊が開隊されました。24機の月光が配備され、以後、対B-29戦での迎撃任務を遂行することとなりました。月光の活躍は目覚ましく、これを目の当たりにした陸軍は、同じ双発機である屠龍(とりゅう)にも斜銃を装備することを決定しました。この決定は、月光の戦術と戦果がいかに効果的であったかを如実に物語っています。月光は、その優れた性能とパイロットたちの技術によって、日本の防空戦において欠かせない存在となりました。卓越した戦闘力を発揮し続けた月光は、日本の空を守るために大いに貢献しました。
月光の生産終了とその後の戦い
月光の生産は1944年10月に打ち切られました。B-29との戦いにおいては高高度性能が不足していると判断されたため、後継機の開発が始まりました。しかし、極光や天雷などの後継機は次々に頓挫しました。その結果、月光は依然として最前線で戦い続けることになりました。
後継機が期待されたにもかかわらず、月光はその信頼性と実績により、引き続き重要な役割を果たしました。高高度での性能不足を補うために、戦術の工夫やパイロットの技術が求められました。こうして、月光は戦争の終わりまで、日本の夜間戦闘機としてその名を轟かせ続けましたですわ☆