猪木デビュー戦~全盛期、唯一1勝も出来ず黒星相手は?

猪木タイトル
人事通信社より引用

1,デビュー戦は黒星スタート

1960年9月30日に東京・台東体育館で行われたデビュー戦。猪木は1962年まで「当時は本名の猪木完至(いのき かんじ)」で活動。当時の猪木は17歳で、この試合が彼のキャリア出発点となりました。

プロレスデビュー戦、対戦相手は韓国出身のプロレスラー、大木金太郎(本名:金一、リングネーム:キム・イル)でした。キム・イルは当時から力強いレスリングスタイルで知られ、日本のプロレス界で一定の評価を受けていました。試合は15分1本勝負で、キム・イルが支配する形で進み、最終的に7分6秒、逆腕固めで猪木を降しました。この試合は猪木にとって大変厳しいデビュー戦となりましたが、この経験が彼のプロレスラーとしての成長に大きな影響を与えたとされています。猪木はこの敗戦をバネにして技術や体力の向上に努め、後に日本プロレス界を代表する存在となりました。

2. 猪木デビューから全盛期への軌跡:黒星スタートからの逆転劇

アントニオ猪木のプロレスキャリアの旅は、デビュー戦における黒星から始まりました。この試合での敗北は若き猪木にとって厳しいスタートでしたが、彼のキャリアにおける重要な転機となりました。猪木はこの経験を糧に、その後のトレーニングと試合で技術を磨き上げ、精神的な強さも培っていきました。プロレスラーとしての技術を高める過程で、猪木はその独特なファイトスタイルを確立しました。彼の戦術は多様で、相手の技に応じて柔軟に対応する能力を持っていました。また、猪木は試合でのカリスマ的なパフォーマンスと、強烈なプロモーションスキルで、ファンを魅了し続けました。

1972年には、猪木は自身のビジョンを形にするため新日本プロレスを設立。この団体は日本国内外で非常に影響力のあるプロレス団体となり、多くの若手レスラーがここで才能を磨きました。新日本プロレスの旗の下、猪木は国際的な試合を組織し、世界中のレスラーと対戦。これらの国際試合は、彼のプロレスキャリアにおけるハイライトとなりました。

その後、国際的な試合で多くの名勝負を展開し、その中でも特に強力な対戦相手として名を馳せたのが、アメリカのプロレスラー、ビル・ロビンソンです。

3,伝説のライバル

ビル・ロビンソンとアントニオ猪木の対決はプロレス界の象徴的なライバル関係の一つです。ロビンソンはアメリカ出身で、その卓越した技術と圧倒的なパワーで知られ、猪木にとっては一度も勝利を挙げることができなかった唯一ゆういつ、全試合黒星の相手でした。彼らの試合は、プロレスの技術と精神の高いレベルでの戦術、プロレス史において重要かつ感動的なものとされています。

 ビル・ロビンソン対アントニオ猪木

ロビンソンは多くのファンを魅了しました。彼は特に強靭な体格と戦略的な試合運びで知られており、猪木との対戦ではこれらの長所が存分に発揮されました。

アリス

ビル・ロビンソンの必殺得意技(人間風車ダブルアーム・スープレックスですわ☆

猪木がプロレスの全盛期に入る中、ビル・ロビンソンとの対決は、彼にとって大きな挑戦でした。両者の試合は常に高い注目を集め、そのどれもが激しい肉体と精神の戦いを展開しました。ロビンソン相手に、猪木にとって唯一、プロレスキャリアの中で勝利を挙げることができなかった好敵手であり、彼の技術と強さを示すバロメーターともなっていました。対戦するたびに、猪木はロビンソンの技に対抗するために新たな戦術を練り、試合を重ねるごとにその技術を磨き上げていきました。しかし、ロビンソンもまた猪木の成長に応じて自身のスタイルを進化させ、常に一歩先を行く王者として立ちはだかりました。この両者の対決は、プロレスファンにとって最高の興奮と感動を提供し、世界中のプロレス業界において重要な試合として記録されています。

このように、ビル・ロビンソンとアントニオ猪木の間の試合は、単なる勝敗以上の意味を持っていました。それはプロレスの技術や魅力を世界に示す機会であり、両者の間の尊敬と競争の精神が光る瞬間でした。ロビンソン対猪木の対戦は、プロレス史において永遠に語り継がれるでしょう。

もう一つの伝説

開催された東京の台東体育館、この日は、日本ライトヘビー級王座決定戦(トーナメント)があり、その前哨戦として初デビュー戦、猪木完至は、第7試合(後のアントニオ猪木)と馬場正平ばばしょうへいは8試合目(後のジャイアント馬場)の特別な日でした。猪木は大木金太郎と対戦しましたが、逆腕固めで敗れました。一方、馬場は田中米太郎たなかよねたろうと対戦の初戦は、その迫力ある体格を活かした圧倒的なパフォーマンスと、新人離れした決め技、股裂またぎりで見事勝利を収めました。

アントニオ猪木とジャイアント馬場の対戦試合は、1961年から1963年にかけて数多く行われ、これらは日本プロレス史上最も注目された一戦となりました。猪木はこの期間中、馬場に対して16戦連続で敗北をきっしました。彼らの戦いは、主に馬場の得意技である「体固め」で猪木が破れるというパターンが多く見られました。

1963年8月3日 大阪府岸和田市港市場

○ジャイアント馬場[2-1]アントニオ猪木●

(1)○馬場[10分27秒体固め]

(2)○猪木[5分15秒体固め]

(3)○馬場[1分22秒体固め] livedoor Blogスポーツ全般より引用

アリス

勝利こそは逃しましたが、公式戦記録では、1本馬場から大金星を得ていますですわ☆

後に1971年にライバル同士のタッグ結成後、1972年、アントニオ猪木は新日本プロレスを、馬場正平は全日本プロレスを創設しました。これにより、猪木「闘魂」馬場「王道」という、日本プロレス界の二大柱が誕生しました。両団体はそれぞれ独自のスタイルでプロレスを牽引し、日本のプロレス文化の発展に大きく貢献していきました。

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